SSブログ

幵・御岩山 賀毗礼神社(日立市)御岩神社 [茨城県]

常陸の国 最古の霊山 御岩山
御岩神社から 山頂目指していく
途中に 賀毗礼神社は在ります
こちらを 参拝した方のみ
(御岩神社入り口の社務所にて)頂ける御朱印です
冬期 天候不良時 夜間時は
入山できません 確認してから入山して下さい



賀毗礼神社
(かびれ神社)


御祭神
天照大神(あまてらすおおみかみ) 
邇邇藝命(ににぎのみこと) 
立速日男命(たちはやひをのみこと) 

a001.jpg
 
 

今日も 御岩山の山頂まで 登ってきました


a076.jpg

こちらの岩は 岩場の影にひっそりとあります
カメラやスマホをかざす人によって 違う色で写ると言われています


 
 

a092.jpg

 ↑ ↑ ↑ 
こちらの像は 安土桃山時代に作られたとされています。
 時代背景で首を切り落とされています・・・ 山に居らしたおじさまが 「頭がなくて可哀想だ」と言って 顔の様な石を乗せていました。良いのか悪いのかわかりませんが 勝手にそれを取り除くこともできません 見なかった事に (^^;) 
 空海のお師匠
さんと言われている 役小角(えんのおづの)の像です
https://ja.wikipedia.org/wiki/役小角


役小角(えんのおづの)役行者(えんのぎょうじゃ)
 実在の人物である
 舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。
 父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女。
 生誕の地とされる場所には、吉祥草寺( 奈良県御所市茅原279)が建立されている。
 17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。
 その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
 兵庫県西宮市甲山、六甲山系目神山で弁財天を感得したことと関連して、役行者は奈良の天河の洞川(どろかわ)に住む近縁者、四鬼氏に命じて、唐櫃に移住させ、吉祥院多聞寺奥の院とされる心経岩、六甲比命神社、雲が岩一帯を守護させた。(以後、四鬼氏は六甲修験の総元締めとして、六甲山西部を管理していた。) 20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(からくに の ひろたり)がいる。
 文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。
 人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。
 命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという
 2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。
 役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
 左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。
 ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主(
茨城の水海道に在る 一言主神社のかと思っていましたが、話の流れから 奈良県御所市森脇432 の城一言主神社 の神ですかね)は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。
 そこで役行者は一言主を神であるにも関
わらず、折檻して責め立てた。
 すると、それに耐えかねた
一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。
 こうして、架橋は沙汰やみになったという。
 役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。
 富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
 また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。



nice!(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。